昭和の安打製造機
天下一品の広角打法で3,000本安打
1959年東映フライヤーズに入団、この年同期で巨人軍の王と新人賞を争い、打率0.275、ホームラン13本の成績でタイトルを手中にし、スタートから大きく引き離した。2年目から3年連続3割を打つなどすでにこの頃から非凡さをアピールしていた。少年時代事故で利き腕の右手を大火傷し左に転向、左バッティング引き腕(右)の強化に血の汗を流したおかげで左右に打ち分ける技法を身につけた。広角打法の先駆者で外角は逆らわずフェアゾーンをフル活用し安打製造機の異名をとる。 首位打者は4年連続を含め7回獲得、神様・川上、天才・長嶋の6回を凌いだ。
日本野球機構(NPB) 安打 【通算記録】
順位 | 選手 | 安打 |
---|---|---|
1 | 張本 勲 | 3085 |
2 | 野村 克也 | 2901 |
3 | 王 貞治 | 2786 |
4 | 門田 博光 | 2566 |
5 | 衣笠 祥雄 | 2543 |
5 | 福本 豊 | 2543 |
現役時代の逸話は、記録だけでなく、記憶にも残るものが多い。
「“不世出の天才打者” であることは、誰しもが認めるところ。それに加えて、足も速い。ですが、こと守備に関しては全然ダメ……というより、やる気を示さなかったという。
高校時代に投手経験があり、投げ過ぎで肩を壊して以来、肩は弱いから守備は、おざなり。東映在籍時代の張本氏は、『打者は打ってナンボ。守備なんて、金にならねえことはやらねぇんだ』と持論を展開。
ところが東映が日拓に身売りした最初のシーズンで、張本は守備にも精を出し始める。 「当時は、『前期・後期』の2シーズン制で、前期は最下位に甘んじた。田宮謙次郎監督が責任を負って、前期終了後に解任されました。それで後期は、新監督に土橋正幸が就任。
張本と土橋の間柄は、東映時代から “親分―子分” で、張本さんは『土橋の兄貴』と呼んでいた。土橋さんが監督になると、『張本を目いっぱい使おう』という方針で、張本さんをヘッドコーチ兼打撃コーチに大抜擢した。
コーチ兼任なので、その分、年俸アップが確約された。その途端、手のひら返したように練習態度が変わり、守備も手抜きせず守るようになった。土橋監督に対する義理人情もあったのかもしれない。
ライバルは王貞治
そんな張本には、選手として意識する「ライバル」がいた。 王貞治。昭和15年生まれで昭和34年プロ入団した、同期の間柄。 張本が、王選手に対するライバル意識を見せた、こんな発言も。 『俺だってホームランだけ狙えば、40本ぐらいなら打てるよ。ホームランと打点は積み重ねで、数字は減らない。でも、打率は生き物で、毎日変わる。5タコ(凡退)すると、一気に打率は下がる。 高打率を保つほうが、ホームランを打つより難しい。だから、俺は打率にこだわるんだ。ホームラン王はワンちゃん。首位打者王は、この俺。俺はそうやって割り切っているんだ』
『世界の王に対して、俺はアジアの張本だ』をキャッチーフレーズにしていたこともある。
張本勲 プロフィール
生年月日 | 1940年 6月 19日 |
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出身地 | 広島県 |
出身校 | 浪華商業高校 |
ポジション | 外野手 |
野球殿堂入り | 1990年 |
獲得したタイトル
1959 | 新人王 |
---|---|
1962 | MVP 1回 |
1961、1967~1970、1972、1974 | 首位打者 7回 |
1960~1970※1、1972~1974※1、1976※2、1977※2 | ベストナイン 16回 ※1…パ・リーグ、※2…セ・リーグ |
1962、1964、1967~1970、1972~1974 | 最高出塁率 9回 |
1976/6 | 月間MVP 1回 |
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